プロフィール

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こんにちは、ノ~チンです!

プロフィールを見てくださりありがとうございます(*´-`*)。

わたしのサイト URL https://sekatomo.comは、ブログタイトルの『ノ~チンの世界の友達(せかいのともだち)』の「せか」と「とも」をくっつけたものです。

これは、わたしが世界各地に友達がいることから付けました。
以前のプロフィールには、世界に友達ができるまでについて簡単に書いていました。興味のある方は、以前のプロフィールをご覧くださいね

もともとは、英語について書いていく予定だったのですが、もっと自分のココロのことについて書きたい、と思うようになったため、これからはココロについて書いていくことにします。

さきほど、いま書きたい内容に合わせて、ブログのサブタイトルを『TOEIC985点、英語ペラペラで慶應卒でもうつなわたし』というちょいと自虐的なものに変更しましたヾ(≧▽≦)ノ。また、将来書きたいことが変わるごとにサブタイトルは変えて行くと思います。

それでは、わたしについて書いていきます。

家族構成

大企業に勤める楽天家で楽しいこと大好きの父(でも真面目)と、社会でバリバリ働きたかったけれど、ほぼ専業主婦の早口で頭の回転がよい母(こちらも真面目)の元で育ちました。

5歳上と3歳上に兄が2人いる末っ子女子です。

女の子を望んでいた母の想いに応え、待望の女の子として誕生しました。小学校のころは殴り合いのケンカを日課にし、「暴力女」というありがたいあだ名をいただくような待望の女の子でしたヾ(≧▽≦)ノ。

いとこのお姉さんや兄のお友達のお姉さんから可愛い洋服が回ってきたりしてたのですが、可愛らしい服は自分らしい感じがせずあまり好きではありませんでした。

いまは、スカートこそ履きませんが(年に2回履くかどうかくらいスカートは履きません( ・`ω・´)キリッ)、胸の前で生地がクロスするカシュクールのような女性らしいデザインは結構好きです。でも、パンツはほぼ1年中ジーンズですwww。

育つ過程で、自分の女らしくなさにコンプレックスを抱いていた時期もありましたが、大学生入学以降「大人しそうに見える・・・」「しゃべらなければ深窓のご令嬢に見える」などと人から言われることが多くなり、「大人しそうにしなきゃいけないの?どうなの自分??」と戸惑ったこともありました。

いまは、女性らしさらしくなさ、ということを意識する時期は過ぎたのかなんなのか、そんなことを考えることもなくなりました。

幼少期

父が仕事で英語を使っていた影響もあってか、幼稚園のときに英語を習いたいと言ったそうで、母親が色々と探して『ラボ・パーティ』なる英語教室を見つけてくれ、年中さんだったのか年長さんだったのか習っていました。

幼い頃は、上の兄のことをスーパーマンのように思っていたように思います。母の話によると、小さいのによく兄の後ろについて回っていて、面倒を見てもらっていたようです。まったく覚えていませんが、トイレでウン◯のお世話などもしてもらっていたりもしたそうです。兄ちゃん、ありがとー。

兄たちのやることは何でもしたがり、兄が2人ともオルガン教室に通っていたので、わたしも幼稚園に上がるとオルガン教室に通い始めました。

幼稚園の頃はピンクレディーが全盛期で、幼稚園から帰ると、幼馴染の家で一緒にピンクレディーの歌を歌ったり踊ったりしていた記憶があります(←幼馴染は振り付けを覚えるのとか上手だった記憶があります)。

小学生時代

小学校時代は、わたしの人生の中でも一番輝かしい時代でした(笑)。

上に兄弟がいることと5月生まれなこともあり、何でもよくできる子供でした。ご飯を食べるのが唯一遅い以外は、勉強もスポーツもよくでき、学級委員もなぜかやりたがってやっていた記憶があります。

低学年のときは、よく男子とプロレスごっこをしたりして遊んでいました。小学2年生、3年生、5~6年生とそれぞれ好きな子がいたのですが、必ず好きな子を一度を泣かしてしまっている、という(それもすごいしょうもない理由で!)なんとも残念な女子でした(笑)。大人になってこの話を長兄としたとき「お前もか」と言っていました。兄も好きな女の子を変にかまって泣かしてしまう、ということをやらかしていたようです。

小学校のときにわたしが好きになった男の子は、総じて腕力が強いとかケンカが強い、とかの男性的要素が少ない子たちでした。小学2年生と3年生のときに好きになった子は2人とも顔が可愛らしく、性格もよい子でした。小学5~6年のときに好きだった子は、サッカーがうまく、勉強もよくできる、絵も上手、だけど大人し目の子でした。懐かしー。

小学1年から中学2年生まで、ヤマハ音楽教室の特別教室という教室に通っていました。どこからどう話が行ったのか不明ですが、幼稚園のときに習っていたオルガン教室の先生に、わたしに特別教室を受験させるようにお達しがあったらしく(人によっては特別教室に通うことを目指して、幼少期から練習する人もいるような教室らしいですょ・・・)、小学1年生から特別教室に通うことになりました。週に一度、片道1時間半とかかけて、ピアノ教室に通っていました。中学・高校も片道1時間半強の私学に通っていたので、いま書きながら気が付きましたが、「遠くに通う」ということに縁のある子供だったのかもしれません。

わたしはなんでも耳から学習するタイプなのですが(耳からの学習が楽だし楽しい:人によって画像で学習する人とか色々タイプがあるそうですよ)、ピアノの教室では10年に1人の才能と言われ、指はあまり動く方ではなかったのですが、曲調を掴むのが上手だと褒められていたようです。小学1年生からピアノを止める中学2年生まで、毎日2時間は練習をしていたと思います。おかげで46歳になったいまでも、突然でも適当にならピアノを弾くことができます。

ピアノを弾けたお蔭で、高校のときに留学した際、たくさんの友達を作ることができました。

小学2年生のときに大好きだったピアノの先生がとある事情で転居されることになり、その先生と別れるのが寂しくて、きっと先生の言うことを聞かなかったのだと思います。先生に始めて手をぶたれた記憶があります。

小学4年生のとき、自分が作曲した曲をレコーディングする機会があったのですが、その日部活でバレーボールをして行ったため、ピアノを弾こうとすると指が震えて弾けず、バレーボールをしてきたことを話すと「ピアノをやっているのにバレーボールをするなんて非常識」と注意されたそうです(多分母が)。わたしも母も、ヤマハの人が当然『ピアノ>バレーボール』という順序で物を言うのに少し不満を感じました。

5年生になってから、手を使わないサッカー部に入部しました。長い間、サッカーが好きでサッカーをしていたと思っていたのですが、いま思えば、バレーボールをやってはいけないと言われたから、代わりにサッカーを選んでいたんだなー、と思います。

放課後は友達とドッチボールやバレーボールをして遊び、学校では男子と殴り合いのケンカをよくしました(笑)。低学年のときにプロレスごっこをしていた影響なのか、当時のわたしにとって、ケンカはコミュニケーションの一種で、楽しんでケンカしていた記憶があります。

わたしの中には、相手の顔は殴らないというルールがあったのですが、顔を殴られて「それ反則やん」と思った記憶があります。一度髪の毛を大量に抜かれてたんこぶができ、泣いたことがありました。同級生とのケンカで泣いたのは、そのときくらいだったと思います。小学4年生のときに中学生の男子とケンカしたり、とにかく自分よりも相手が強いかとか関係なく、楽しくケンカをしていました(爆)。

わたしが小学校1~2年生のとき、実は母が余命1年と医師から宣告されたそうです。

わたしは小さかったためか記憶がないのですが、一番上の兄はよく覚えているようで、家に帰るといつもお母さんが死んでいないかドキドキしていた、と聞きました。小学校高学年の子供にはすさまじい精神的ストレスだっただろうな、と思います。

このとき、なぜか父は単身赴任でヨーロッパにいます。そのため、余命1年の母が子供の面倒を1人で見、小学6年生くらいの兄が母親から「わたしが死んだら、の~ちんとHさん(真ん中の兄)をよろしくね。」と言われるという異常な事態が起こっていました。

この時期のことは、母の中で父に対するわだかまりになっているようです(当たり前と言えば当たり前なのですが)。一方、父は母が余命1年と宣告されたこと自体記憶にない、というどうしたらそういう状態になるのかは分からないのですが、そういう状態です。

中学生時代

中学、高校はわたしの言わば暗黒時代です。

わたしは、小学5年生から塾に通ったのですが、一般的な流れとは異なり、わたしの場合わたしが塾に行きたい、と言って塾に通い始めました。当時、おそらくピアノの行き帰りに見かけたであろう塾に通う上級生の姿を見て「わたしも賢くなりたい」と思ったのでした。

そんなこんなで日曜日だけですが、塾に通い、流れで受験をしました。塾に通っていた周りの人たちがみんな受けたので、そんなもんだと思い。わたしは共学の公立の学校を目指していたのですが(いや、別段目指していた訳ではないですが、受験した学校の中ではそこ、と思っていました)、そこは滑ってしまい、私立の女子校(←進学校)に受かってしまいます。

わたしが行きたければ行けるように、と入学費を払い「入学費を払ったから、行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなくていいよ」と言われたのですが、子供のわたしは「入学費を払った」=「ゲ、お金が無駄になる」と思い、行くことを選んでしまいます。女子校=女子の少ない学校、と誤解して。

受験のときに女子ばかり見かけたのは分かっていたのですが、おバカな小学生は「女子校」=「男子が本当に1人もいない学校」だとは思っておらず、入学して、「マジでーーー!!勘弁してーーーー(涙)!!!」と思ったのを覚えています。

男兄弟の中で育ち、小学校でも男子とよく遊んでいたわたしにとっては(女子とももちろんよく遊んでいましたが)、男子がまったくいない学校、というのは想定外でした。それでも仕方なくそれなりに楽しく中学1年生は過ごすのですが、中学2年あたりから、校風(髪の毛に結ぶリボンの細さは〇cm、とかしょうもなさすぎる校則がありました)や先生との相性から、学校合わねーーー!!!と思うようになります。

わたしはファッションにまったく興味がなかったので、校則違反などは皆無だったのですが、態度で先生とぶつかることがちょくちょくありました。中には仲よしの先生もいましたが、学年主任やそこそこパワーのある先生とのそりが悪いことが多かったように思います。

「学校が合わない、地元の中学に移りたい」と母に伝えていたのですが、聞き入れられず、高校受験をするために中学3年生の夏休みに不得意だった英語の教科書を中学1年生からすべてやり直しました。地元の中学に移りたい、というわたしの訴えは、当時上の兄が大学受験に失敗したこともあり、母の中では進学校に行かせとかなきゃヤバイと言う頭があったのかな~、と思います。その他にも、母に気になることがいっぱいあった時期で、わたしの訴えはもしかしたら母の耳にはきちんと届いていなかったのかなー、と今では思います。

中学2年生ごろから、わたしは母の愚痴(祖母と父に対するもの)をずーーーーっと聞くことになります。

父と離婚したいけれど、あなたたちが大人になるまで我慢する。
これを、わたしは「お母さんはわたしたちが産まれてきたために、幸せになれない」と解釈していました。これは、わたしがその後希死念慮を抱くベースになっていたのではないかなー、と思っています。

子供は親が、とくに母親が大好きなので、わたしは母に離婚して欲しい、と強く思っていました。

高校生時代

結局、なぜか高校受験をすることなく、そのまま校風の合わない私立の女子校に進学したわたしは、学校合わねーーーと思いながら、学校に通っていたように思います。

昨年、高校時代の親友ともう1人高校時代の友人と3人で会う機会があり、本当にすごくすごく楽しい時間を過ごすことができました。そして、「学校合わない、合わない」って言ってたけど、友達とはそこそこ楽しく過ごしてたんだなー、きっと、と思いました。

そうこうしていた高校1年生のとき、同じく学校ギライのTさんから「ねぇねぇ、の~ちん、留学試験があるんだけど一緒に受けん?受かったら、学校から脱出できるよ。」という魅惑のお誘いがありました。そこで、YFU(Youth For Understanding)という留学プログラムの試験を受けます。

高校受験をしたいと思って勉強していたのが功を奏したのか、なんと留学試験に合格し、アメリカに行けることに!わ~~~~い、脱出だ~~~ヾ(≧▽≦)ノ!!!

留学時代

高校2年生の8月から高校3年生の6月までアメリカに留学します。

32歳のホストマザーにホストマザーの10歳くらい年上のホストファーザー、12歳、5歳、4歳のホストシスターと留学中に産まれた0歳のホストシスターの4人の女の子がいる家庭にホームスティしました。生まれて初めて、自分よりも小さな姉妹が出来、とても嬉しかったです。

留学中は日本の学校とはうって変わって、「生意気な生徒」的に見られることもなく、また一度オールAを取ったり(英語がよく分からないのに、真面目に宿題とかやっていたせいかオールAを取れました)、楽しい留学生活を送ります。

ホストファミリーとはいまでも連絡を取っていますが、当時オムツを替えていた赤ちゃんがすっかり大人になっていたり、友達の子供がもう成人していたりすることにビックリします。

留学前は、ラジオの英会話講座という講座をはしごして聞き、できるだけ英語力を付けて行きましたが、アメリカに行くと話すスピードの速さについて行けず!!学校の始まる前はホストファミリーとだけなので、ゆっくりも話してくれるしあまり話せないなりに問題は感じなかったのですが、学校が始まった初日、友達もいないので、周りの会話を英語 → 日本語に訳していたら、ランチまでには頭痛でひどいことになっていましたヾ(≧▽≦)ノ。

あ、1つ学校が始まる前の夏休みに印象深い思い出があります。ホストマザーが不動産関係の仕事をしていたのですが、彼女が留守のときにお客さんから電話がかかってきました。ホストマザーに英語の勉強になるから、電話が鳴ったら出るように的なお達しがあったため、受話器を取ったのですが、どうにも相手の言っていることが分からない💦。で “I am Japanese and I don’t understand English.”「わたしは日本人で、英語があまり分かりません」的なことを応えると、「なんで英語分かんないのに、電話に出るんだYO(# ゚Д゚)!!」と・・・。ごもっともながら、ひょえ~~~~!ととても強い印象が残りましたねー。

学校が始まると、アメリカの高校生はみんなお化粧を当たり前のようにして、大人っぽく驚きました。当時12歳だったわたしのホストシスターも少しお化粧をしてるときがあったり、おしゃれとは縁遠いわたしは「すごいなーーーー」と何度も驚いていた気がします。

留学時代はコーラスと物理(日本では全然好きじゃなかったのに、先生が教えるのが上手で英語があまり分からないのに面白かった!)、家庭科の授業が楽しかったです。特にコーラスのクラスでは、ピアノの伴奏をすることになり、たくさんの友達ができました。コーラスのクラスでは、ピアノの伴奏をしたこともあってか、”Rookie Of The Year(新人賞)”という賞をいただきました。

留学時代の友人もfacebookのおかげで連絡が復活し、いまも連絡を取り合っています。

高校3年生

高校3年生の6月にアメリカから帰国し、受験勉強をすることになります。

進学校だったにもかかわらず、1人毛色の変わったシスター(あ、カソリックの学校だったので、先生にシスターがいました)が「みんながみんな大学に行かなくてもいい」と言っていたこともあって、勉強したいことも分からないし、まずは働きたい、とチラリと思います。が、『大学は行くもの』と頭の中で決まっていた両親の元、大学に行くか行かないか、という会話はきちんと取り合われることもなく、また自分の意思がハッキリしていた訳でもないわたしは、せっせと受験勉強をすることに。

受験勉強中に湾岸戦争が勃発し、こんなときに受験勉強とかしてていいんだろうか?と思ったことを覚えています。戦争を止めるために何かしなくていいのかな、って。止めるために何かできたかは不明だけど、受験勉強をしながら、戦争を止めるためにも何かをする、つまりは両方をする方法もあるぜ、といまは思います。別段何かする必要もないし、とも思いますが。

当時は戦争を止めるために何かをするのか、受験勉強をするのか、の二択みたいな頭だった気がします。

大学生時代

兄2人が浪人し「お金がない、お金がない」という言葉を母から散々聞いていたお蔭か、めでたく現役で大学に合格します。

いまでも、そんなにお金がないのなら、わたしが働くと言ったときにその選択肢も真面目に考えてもよかったんじゃないかなーと思うのですが、両親にとっては「子供を大学まで出す」と言うのは頭の中で決まっていたことだったので、そうとうわたし自身の意思が固くなければ大学に行く流れになっていたのだろうと思います。

さて、そんなこんなで、めでたく合格した大学でしたが、振り返るとわたしは大学1年、2年、3年と4年間に三度も秋から春にかけてうつ状態に陥っていました。いまとなってはどうしてうつになっていたのかはっきりとは思い出せないのですが、将来何がしたいのか分からない、ということが要因になっていたことはありました。

また、ハッキリとは覚えていないのですが、県外に出て一人暮らしをしていても、定期的に母の愚痴を聞いていた記憶がおぼろげにあります。「お金がない」やおそらく父や祖母への愚痴もあったと思います。「お金がない」と言うのは、勉強したいことも特になく大学に行ってしまったわたしにとっては、心のどこかで自分が大学に通っていることの罪悪感にもなっていたのではないかなー、となんとなくですが思います。

大学3年の秋ごろから就職活動の説明などが始まります。大学3年の夏に高校時代の親友が亡くなったり、友達として仲よくなりたかった男の子となんとなく付き合う感じになったのに(いま振り返ると、わたしはまず友達として仲よくなりたかったけれど、相手はわたしの好意を付き合うと解釈していたと思われます)、別れたり、と色んなことがありました。

就職活動が始まる直前、母がわたしの下宿に面倒を見に来てくれるのですが、その際人生で初めて自殺未遂を試みます(風邪薬を大量に服用)。そもそも企業に就職すること自体を希望していなかったと思うのですが、新卒のときでないといわゆるいい企業、一部上場企業に就職できない、と言うような一般論なども聞き・・・。要は自分がなかったんでしょうね。自分自身のはっきりとした意思が。

わたしが就職活動をする時期は超氷河期と言われていたため、ニュースを見るたびに「就職できなかった自分」を想像するととても怖くなりました。

母に「就職せずに好きな本を読みたい」と伝えたこともありましたが、「就職して読めばいいでしょ」と言われ(ごもっとも)却下。

もともと、中学の上下関係ができるころから、日本の縦社会的なものに反発を覚え、上下関係を築いていなかったわたしは、就職=縦社会に順応していかなければいけない、自分自身のままではいけない、という考えもあり、就職することにとても抵抗があったように思います。就職活動時には、就職活動情報誌などもチラリと読んだりしましたが、「自己分析」とかしていると、もう自分自身が分からず、ウツ!

実際、就職活動が始まって、面接などをし出すとうつ状態は治って行きました。

結局自分が何をしたいかがよく分からないまま「結婚して出産して、仕事を中断しても仕事ができるよう、手に職を付ける」という考えの元、ソフトウェア会社に就職します。

大学4年生のとき、3年生のときに間違って付き合ったことになったっぽい子を除いて初めて彼氏と呼べる人ができました。大学4年生の夏にしたアルバイト先の社員さんでした。この年、大学に入って、初めて冬にうつに陥らずに過ごしました。

社会人1年目

大阪の企業に就職したわたしは、大学卒業と同時に神奈川県から大阪に転居します。わたしの就職に遅れること数ヶ月して、偶然父も大阪に転勤になります。

そして、学生時代に付き合っていた彼も転属を願い出て、大阪に転勤してきてくれました。

ソフトウェア会社ですから、納期のためには泊まり込み、ということもある会社でしたが、1年目はそれほど残業しなくてもOK的なルールがあったため、残業はしないと決めていたわたしは残業をしている人々を尻目に「お疲れさまでした~。」と帰宅する日々を過ごします。

会社の寮に入っていましたが、寮の収容人数の関係上、幸運にも1人だけ会社の人とは別のマンションになり、彼の下宿に半同棲していたと記憶しています。

就職活動時にはあれほど怖がっていた会社でしたが、就職して見れば、さほど自分を押し殺すこともなくそこそこ楽しく勤務していたように思います。

面接時「英語が使いたいです」と伝えたところ、「使えますよ~」と言うことでしたが、蓋を開けてみると外国人社員が1人いる以外には英語を使う機会もなく、入社後「いつ英語が使えますか?」と聞くと「10年後に英語を使うプロジェクトがあります」という口から出まかせのようなことを言われヾ(≧▽≦)ノ、英語を使える仕事がしたいなーと思うように。

社会人2年目以降

結局最初の会社は1年2ヶ月で退職し、貿易会社やメーカーの海外部門で英語を使った仕事をするようになります。

1年間派遣で働いたメーカーが1年後派遣切りを行ったことをきっかけに翻訳会社に就職します。実は派遣で仕事をしながら、翻訳のボランティアや仕事をしていて、また趣味の英語のサークル経由で知り合った人と翻訳本を共訳出版していた関係で、さほど翻訳経験がないにも関わらず、翻訳会社に就職することができました。

翻訳会社では、外注の翻訳者さんに慶応卒の方がいらっしゃいました。とても優秀で信頼が厚い方で、こなす仕事の量が半端ありませんでした。わたしが翻訳していた内容がコンピューターネットワーク系で、まったく興味のない内容だったこと、また外注の翻訳者さん、評価が高いけれど、半端なく忙しそうなのを見て、手に職=翻訳者、いいね♪という自分の中の図式が、翻訳者、面白くない上に稼ぐためにはスゲー忙しくしなきゃならんのじゃね?という図式に変わっていきました。

結婚生活

翻訳会社に就職して半年ほど経ったころ、付き合っていた彼と結婚することになり、26歳で結婚します。

結婚1年後くらいに、翻訳会社での仕事が多忙だったためか、うつ状態に陥ります。回復したころに本屋さんで偶然『軽症うつ病(だったかな?)』という本を手にします。そこで初めて学生時代からの自分の不調がうつだったんだなー、と理解します。今度うつになったら、病院に行くからよろしくね、と旦那さんに伝えます。

母から父に関する愚痴をずーーーっと聞いていたため、結婚についてはあまり夢を抱いていなかったものの、結婚してみるとなんか結構楽しいじゃない(*´∀`*)♪と感じました。友達からは「理想のカップル」、と言われたこともあったりw。共働きで、結婚相手が夜遅くまで仕事をしていたため、仕事を終えて家に帰り、少し休んでから夕飯を作り、彼が帰って来てから一緒に食事。または先に食べて、遅く帰ってくる彼を車で会社まで迎えに行く、というパターンが多かったと思います。

離婚

26歳で結婚したものの29歳で離婚することとなり、調停離婚や裁判も経験しちゃいましたヾ(≧▽≦)ノ。

離婚調停時には大学時代の友達TとYにとってもお世話になりました。夜中の2時とかに電話で話を聞いてくれたり、本当にありがとう。2人がいてくれたおかげで大変な時期を乗り越えられました。

あ、この時期、大学時代の別の友達からは謎な対応をされ、関係が終わりました。友達5~6人のメーリングリストで「いつでも話を聞くからね」と言ってくれていたのに、実際に電話してみたら「大学のときとは違うから、もう話は聞けない」と。それならどうしてわざわざみんなが見るメーリングリストで「話を聞くよ」とメッセージを送ってきたのか、そして電話したら断る。わたしにとっては非常に頭の混乱する出来事でした。

このことで、わたしはつい最近まで、大人になったら、人は忙しくて泣き言や悩みごとを聞いてもらえない、泣き言を言ったら拒絶される、という思い込みを持っていました。振り返ってみれば、TとYはずっと話を聞いてくれていた訳なので、どうしてそんな風に思ってしまったか謎ですが、なぜかそんな風に思い込んで、悲しく思っていました。

結婚した彼とは、結婚する前に一度破談になったので、そのまま破談の状態であればよかったものの、結局結婚し、そして離婚~。離婚は結婚よりパワーがいる、を身をもって経験しました(›´ω`‹ )

わたしの離婚が成立し、ほどなくして父が定年退職し、両親は大阪から引き揚げて行きました。この後、またうつになります。

離婚後、会社で仕事をしながら涙が止まらない、という状態になります。ずっと好きで大切だった相手に連絡ができないような関係になってしまったことが悲しかったり、自分で離婚を決めたにも関わらずなぜか「要らないと言われた」ような気持になり、希死念慮もありました。

結婚していたときに「次に調子が悪くなったときは病院に行こう」と決めていたため、思い切って病院に行きます。病院に行く前、お金の面などで不安があったので、長兄に電話で「死にたいから病院に行こうかと思うけれど、カウンセリングとかのお金が高そうなので不安だ」と話したところ、金よりも命の方が大切だから、病院に行けと背中を押してもらいました。兄、ありがと。

離婚した秋ごろから冬にかけて、ゴスペルで仲よくなった友達Tちゃんが、週末ごとにわたしの家に1時間半くらいかけて通って来てくれていました。あとから聞いたら「の~ちんが心配だったからだよ。」と言っていました。Tちゃんには、本当に感謝してます。ありがとう。

初めての心療内科

離婚後のうつを機に初めて心療内科を訪ねました。27歳のときに『軽症うつ病』の本を手に取り、今度不調になったときは病院に行こう、と決めてはいたものの、病院に行くのは心理的な抵抗が少なからずありました。でも、とても必要に感じていたので、長兄に電話して話をした次の日にはすぐに住んでいた駅から2つ隣にある心療内科に行きました。

このときはなんちゃら神経症に伴ううつ状態、的な診断をされたと思います。

薬を処方され、飲みだして2~3日で職場で涙を流す、という症状は見事に消えました。当時の医師からは「薬はそんなに早くは効きませんよ」と言われたので、プラシーボ的なものもあったのかもしれません。

最初に行ったクリニックではカウンセリングをやっていなかったため、カウンセリングを受けることのできる大きな病院を紹介してもらいいます。

最初の大きなうつ

さて、月1回くらいの頻度で病院に通い、カウンセリングも受けていましたが、離婚した次の年の5、6月頃にガタっと調子を崩します。

たしか5月頃に翻訳会社を辞めることを決めたと思います。これもまた不思議なことなのですが、自分で辞めることを決めたにも関わらず、また「お前は要らないと言われた」ように感じ、苦しくなります。離婚のときに「要らないと言われた」と一緒ですよね。

そんな風に感じていたこともあり、8月くらいになると、会社に行こうと思うと死にたくなる、という状態になります。当時カウンセリングを受けていたこともあり、おそらく病院にその症状を電話したのだと思います。カウンセラーの先生から「会社に行かなくていいから、とにかく次の診察日まで生きて病院に来てください」と言われ、体調不良を理由に会社を数日休んだと思います。当時は一人暮らしだったため、その間、ご飯とかどうしていたのか不思議です。

次の診察日、入院を希望し入院させてもらうことになります。入院手続きをし、会社と実家に電話するのですが、電話を受けた両親が広島から大阪まで高速を飛ばして迎えに来てくれます。これは想像なのですが、母が精神科の病院に対してとても悪いイメージを抱いていたからではないかと思います。

と言うのも、長兄の同級生の女の子が中学生のとき、いじめが原因で不登校になったことがありました。心療内科か精神科に通っておられたそうなのですが、一度入院されたか何かで、他の調子の悪い患者さんをたくさん見たことによって、彼女が絶望してしまった、と言ったことを聞いていたからではないかと推察しています。

当時、わたしはカウンセリングで母のことをずっとカウンセラーさんに話していました。そのため、両親が迎えに来てくれると言ったとき、母には来てほしくない、と伝えました(おそらく父と話していたんだと思います)。が、蓋を開けたら母も一緒に迎えに来ていて、とても腹立たしく感じたのを覚えています。

結局両親が迎えに来てくれたおかげで、半日病院にいただけで退院し、実家に戻りました。

実家で最初の引きこもり生活

こんな経緯で勤めていた会社は、契約期間終了よりも少し早く退職させてもらいました。

広島の実家で、初めての引きこもり生活が始まります。

自室のベッドで横になっていることが多かったように思います。ただ、当時は母から「この子はこのままで大丈夫なのかしら?」というオーラをバシバシ感じ、安心して休むことができませんでした。

大学を卒業するときに「就職せずに本を読みたい」と思ったのですが、それをこの期間実現したように思います。

1年弱で少し元気を取り戻したわたしは、またピアノを弾いてみようかと思い、ピアノのサークルをネットで探します。そこで、その後10年ほど付き合うことになるピアノに関するホームページを開設していた彼と出会います。

実家から出て1人暮らしを始める

この彼との出会いもあり、幸い、社会人をしていたときの貯金が少しあったため、母の心配オーラを逃れてゆっくり休むために家を出て1人暮らしを始めます。家を出てから半年くらいはよかったのですが、次第に貯金も尽きはじめ、アルバイトをかけもちし始めます。

パン屋さんと一般のお宅の掃除、それから小さな学習塾の講師をかけもちしていましたが、まだまだ休みたかったことに加え、将来の不安、そして中兄の不調などが加わり、ガタっと調子を崩します。

ここから、更に重度のうつを経験します。

二度目の大きなうつ

ここはあまりに酷いので、詳細は省きますが、このとき二度目の自殺未遂をします。

未遂を起こした後、1週間ほど当時付き合っていた彼の実家にお世話になりました。ただ、眠って起きる度にわたしの安否を確認する彼を見て、これ以上迷惑をかけらないと感じ、両親に自殺未遂をしたと連絡をします。

このときもおそらく日をおかずに父が高速を運転して迎えに来てくれました。色々と迷惑をかけていたなー。

わたしは、つい最近まで父がわたしを大切に思ってくれている、と思っていませんでした。母が「お父さんの家族は、お父さんが育った家族で、わたしたちのことは大切じゃないのよ。」と言っていたことなどもあり、実際に父がわたしにしてくれたことや、父のなんというか父自身を大切にする性格などから生じたやり取りの誤解などもあり、「お父さんはわたしたちのことは大切に思っていない」と信じていました。

二度目の引きこもり生活(ここまだ)

さて、実家に戻って来て、二度目の引きこもり生活が始まります。このときは、うつの度合いも以前よりも重かったと思います。

死のうとしたこともあり、母からの「この子はこのままで大丈夫なんだろうか?」というプレッシャーはまったく感じなくなりました。おそらくですが、わたしが周りが見えていなかった、と言うよりは、実際に母が「とりあえず元気になるまで休めばいい」と思うようになってくれていたのではないかと推察します。

もう随分と前になるので、どんな生活をしていたかは忘れましたが、かなり長い間、ほとんど何もせずに毎日起きてご飯を食べて寝る、の繰り返しの生活をしていたのではないかと思います。

実家に戻って来てから1年と少し経ち、徐々に元気が出てきたわたしは、

2016年2月から約2年半続いたうつ(ここまだ)

このブログを開始した2017年2月、わたしは2016年2月にまた(!)発症したうつのおかげで希望もないし、将来についても不安ばかり。苦肉の策で、得意な英語についてブログを書いて、ブログから収入を得ようと思っていました。でも、そんな気持ちで始めたブログ、書いていて楽しいときもありましたが、そもそも始めた動機がそこからどうにか収入を得て経済的な不安を解消したい、だったためか、いつの間にか放置状態に。

これまでにも何度もうつになってきましたが、今回は一番長く、2018年5月に薬を変更し、やっと気分が上向きました。でも、2018年7月に起こった西日本豪雨災害でまた症状が少し戻りました。被災地が自分の住んでいるすぐの場所だったこともあり、また何か起こる前に早く死にたい、と感じました。

中学生の頃から、家庭環境の影響もあり心理学や自己啓発の本を好んで読んでいましたが、今回うつになったことで既存の心理学などに非常に懐疑的になりました。2018年10月に既存の心理学とは異なる、とうたっているYSメソッドのカリキュラムを受け、随分とうつが改善しました。YSメソッドについては、別途ブログにアップする予定です。アップしたら、こちらにもリンクを貼りますね。

2019年1月現在、いま一番書きたいことは、自分のココロのことや、自分自身でお金を稼げるようになりたいけれど、まだまだな現状と不安な気持ち。そして経済的に自立していくまでの自分自身の考え方を変革していく過程。

自分をまるっと「自分のままでOK」って言えるようになろうとしている過程や、自分が育ってきて感じたこと。いま現在子育てをしている人たちに、子供だったわたし、そして自分自身の子供を持っていないわたしから、伝えたい想いを書いていこうと思います。

変わった子ちゃんのわたしなりに(ここまだ)

どうも、月曜日~金曜日まで決まった時間に決まった場所に行って、仕事をする、ということがすごーーーくイヤって感じる。

大人になりたくなかった

子供のころ、大人を見ていて、大人になることはつまらないことだ、大人になると楽しいことが減るんだ、と感じていました。いわゆる大人になりたくない「ピーターパン症候群」なお子様でした。

いま、十分すぎるほど年齢的に大人になって、生きることって楽しいんだよ!って言える大人にはなれていないけれど、これから、生きることってなかなかいいで、子供も楽しいけど(ってわたしが楽しい子供を過ごせていただけで、そうでない人もいると思うのだけれど)、大人も楽しいよ、って言えて、そしてそんな風にちゃんと見える大人になって行こうと思います。

Y先輩について

上の文章を書いていても思ったけれど、中学生くらいからは通っていた学校が合わなかったり、嫌なことが色々出てきたものの、わたしは小学生時代は本当に楽しい!と思える時を過ごしました。これって、親が伸び伸びとできる環境を整えてくれてたんだろうな、と改めて思います。

いまの時代なのか、それともこれまでの時代もかは分からないけれど、わたしたち(or わたし個人なのかもしれませんが)はいかに自分が持っていないものやしてもらえなかったことに注目し、持っているものやしてもらったことから目を離しがちなのか、ということに最近興味を持ってときどき観ているYouTube動画の影響で気が付き始めました。

大学3年の終わりごろ、わたしにとってとても印象深いことがありました。
わたしたち大学3年生は就職活動を意識し始め、1学年上の先輩たちのほとんどは就職先を決めるか大学院への進学が決まっている時期でした。サークルで一時一緒になったYさんという先輩がいました。その先輩は偏差値の低い高校から猛勉強して慶應に入ったんだ、と言っていた人で就職先はなんと通産省に決まっていました。

企業名や省庁名にひじょ~~~に疎いわたしでも、「通産省」は行きたくてもみんなが行けるところじゃない、というイメージでした。その通産省に就職が決まっていたY先輩が、大学院進学を決めていたA先輩とわたしにこんなことを言い放ったのです。

「英語ができるヤツは自信が持てていいよな。」「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー?!?!?!いやいやいやいや、アンタ天下の(?)通産省に就職決まったんでしょ?なのに英語できないから自信がないって意味なん??」って。

いや、別の解釈がもしかしたらあるのかもしれません。でも、わたしはそんな風に解釈しました。

わたしはいま、収入が少なくて不安やわー。これからどんどん歳を取っていって、できることが減っていくイメージやし、築いてきた自信もないし。ってか、かくいうわたしも有名な学校行って、英語もしゃべれて、なのになんで自分のことダメだって感じるん?

これ、うつのときにふと思ったんだけど、わたしが他人として自分を見てたら「色んなことが出来てすごいな。お金稼ごうと思ったら、そこそこの収入だったら問題なく得られるんじゃない?」って思いそうって。

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