こんにちは、ノ~チン(@NozomiJapanese)です!
先週、可愛い可愛い姪っ子がオーストラリアへと旅立っていきました。
ワーホリで、1年間オーストラリアに滞在予定です。
姪とは離れて住んでいたため、彼女が日本にいる間も年に1~2度会うくらいでした。
それでも旅立つ数日前は、海外だなんて本当に寂しくなるなぁ、と感じていました。
実際旅立ってみると、それまでよりも姪のことをよく考えている分、存在を近くに感じ、不思議な気がしています。
目次
「才能」を伸ばす?
わたしは、人間はみな「天才」だと思っています。
が、先日友人と話していたときに「世の中にはなんの才能のない人間もおるで」と言われたので、ここは個々人によって見解が分かれるところかな、と思っています。
人がみな天才かどうか はさておき、世の中でよく聞くのが「こどもの才能を伸ばそう」とすること。
わたしは、これは 大反対です。
自分の経験からも、これは間違っている、と思っています。
「子供の才能を伸ばそう」として起こること
「子供の才能を伸ばそう」とすると、起こりがちなことがあります。
それは、一定方向にその人を導こうとしてしまうこと。
結果として、才能を潰してしまったり、その子のやる気を阻害してしまうことがあります。
つまり、「才能を伸ばそう」としたにも関わらず「才能を潰す」という逆の結果を導いてしまう、ということが起こるということです。
これは、いまの世の中がある一定の形をよし、それ以外をダメ、と見てしまう傾向も影響している気がします。
ここで、1つ、植物を例にとって考えてみましょう。
世の中には色んな花があり、それぞれ固有の花をつけます。開花時期も花によって異なります。
チューリップとヒヤシンスを例にとると、チューリップは4~5月にかけて花を咲かせ、ヒヤシンスは2~4月に咲きます。
それぞれ、花を咲かせる準備ができたときに花を咲かせ、チューリップはチューリップの花を、ヒヤシンスはヒヤシンスの花を咲かせます。
チューリップが自分の特性を無視して、ヒヤシンスの花をつけようとすることはありませんし、ヒヤシンスを気にして、4~5月ではなく、2~4月に花を咲かそうとすることもありません。
チューリップを育て、花を咲かせるためには、水や養分など物理的に必要な条件はもちろんあるでしょう。ですが、どう工夫しても、チューリップがヒヤシンスになることはありませんし、なる必要もありません。
一方、人が「子供の才能を伸ばそう」、「子供を育てよう」とする場合、その子の元々持っている特性を開花させるのではなく、手を加えて別のものにしようとしてしまったり、あるいは開花時期を早めるかのごとく、何かを速く成し遂げることが大切だと思わせる、ということが起こりがちです。
一番大切なことは、教えなくても本人が一番知っています。
自分はチューリップなのか、あるいはヒヤシンスなのか。
つまりは「自分」が「何に喜びを感じ」、「何に興味を感じ」、「何に幸せを感じる」のか。
それは、人それぞれ違います。
「邪魔をしないこと」が一番大切
わたしは小学4年生の一時期、ドッジボールが生活の最重要事項だった時期がありました。
どのくらいの期間 熱中していたのかは定かではないのですが、いまから振り返ると、明けても暮れてもドッジボールがうまくなることだけを考えていました。
わたしは、元々ボールをよけるのは得意で、ほとんど必ず最後までボールを当てられることなく生き残っていました。ただ、ボールを取ることがまったくできませんでした。
そのため、わたしが最後まで残っても、チームが勝つことはありませんでした。
そこで、小学4年生のわたしは考えたのです。
勝つためには、よけるだけでなくボールが取れなければダメなのよぉ(炎▽炎)メラメラ!!!、と。
そして、放課後、男子に頼んで特訓をしてもらいます。ボールを取る特訓を。
初めてクラスで最強のボールを投げるカンカンの球を取れたことは、いまでも覚えています。
※ カンカン=同級生男子。太っていたので、当時人気のあったジャイアントパンダの名前を取って「カンカン」と呼ばれていた。
カンカンの投げた球がみぞおちを直撃し、息ができなくなりながらもボールを投げ返した後、膝をついて「取った!!取れた!!!」と感動しました。
学校でボールを取る特訓をした後は、家に帰ってから、狙った場所にボールを投げられるよう、近所の公園の壁に向かって、毎日暗くなるまでボールを投げ続けていました。
いま考えれば、たかがドッジボールにめっちゃ人生かけてたね(○´艸`)、って感じなんですが、当時のわたしにとっては、ドッジボールが強くなることが、人生の中で一番大切なことでした。
当時、誰から阻害されることもなく、思い切りドッジボールに打ち込めたこと、めちゃめちゃよかったなぁ!と思うのです。
大人になった自分が考えても、当時のわたしが情熱を傾けていた「ボールが取れるようになること」、「ボールを思ったところに投げられるようになること」は、大人になったいまの生活の役に立っているとは思いません。
それでも、当時のわたしの情熱を誰からも邪魔されることなく、むしろ特訓に付き合ってもらうという形で応援までしてもらって、心置きなく挑戦できたことは宝だった、と思います。
「ドッジボールがうまくなったからって、将来何の役にも立たへんで」と言われることもなく、はたまた「ドッジボールがうまくなったら、将来はドッジボールの選手になったらいいね」なんてことも言われず、小学4年生のわたしが、当時一番やりたかったことをできたことは、この上なくラッキーで幸せなことだったと思います。
「邪魔」しないために大切なこと
子供の才能が伸びていく邪魔をしないために大切なことは、その子の特性をしっかりと知ることだと思います。
数年前に『嫌われる勇気』で一躍注目を浴びたアドラー心理学では、褒めることをよしとしません。
これは、誤解が生じがちだと思うのですが、「褒める」こと自体が悪いと言っている訳ではありません。
肝心なことは、他人から「褒められる」ことで、「本人の意思」よりも「他人からの承認」が力を持ってしまうことに対する危険性を言っています。
別の言葉で言うなら、自分が「やりたい」からではなく、「誰かから褒められたい」ために何かをすると、何かをやって褒められなかった場合にモチベーションが下がる、ということが起こる、と言うことです。
分かりやすい例をあげるなら「何かを学習する」ことのモチベーションが、本人の「知りたい・学習したい」ではなく、「誰かから褒められたい」の場合、例えばテストの結果を人から褒めてもらえなかったらやる気が落ちる、ということが起こるといったことです。
子供が、自分が取り組んでいることを話したがるなら、話を聞いてあげるといいでしょうし、黙々と取り組んで、話をしたがらないようなら、話を聞く必要はないかもしれません。
子供を大切に思い、尊重する気持ちがあれば、話を聞く・聞かないなどの細かなノウハウは必要ない気がします。
色んな経験をさせてあげる=相手を信じる
世の中を見渡していて、よく感じるのは、大人が子供のためを思い、「失敗しないように」あるいは「最短距離で結果が出せるように」環境を整えようとしているように思うことがあります。
以前、知人が「子供ができたら、自分と同じ失敗をしないように教えてあげたい」と言ったことがありました。
わたしは、それを聞いて「えーーー∑(゜ロ゜ノ)ノ?!?!?!」と思いました。
と言うのも、わたしは「自分自身で経験したい」という思うが強いため、親のよかれ、から来るレール敷きを疎ましく感じていたので、同世代でもそういう風に感じる人もいるんだなー!!!、と驚いたのを覚えています。
わたしのような人間からすると、「失敗をしないよう環境を整える」=「その人を信頼していない」ように感じます。
失敗から学べることってたくさんあるはずなのに、「失敗」を「無駄なこと」と思っているから、そんな風になるんじゃないだろうか?とも思います。
「失敗」にも色んな種類があり、「失敗」が「死」に直結するようなものはもちろん、その危険性を伝えることはとても重要だと思います。
ただ、それ以外のこと、例えばケガをしたり、人を傷付けたり、傷付けられたり、そういうことって生きて行く上でとても大切な経験だと思います。
人間関係から生じる苦しさも、経験したからこそ分かることがたくさんあります。
ケガにしても、ケガをすることで、何をすればケガをするのかが分かります。
人によっては、どうやったらケガをしない身体を作れるのか、自分の身体の鍛え方を考えるようになるかもしれません。人によっては、ケガをしそうな環境を避ける判断力を養うことになるかもしれません。
同じ経験からも、学びたいことは人によって異なると思います。なので、その「経験」自体を取り上げてしまうことはとても寂しいと個人的には思います。
本人よりも夢中にならない
子供に限らずですが、人は自分の「興味」や「やりたい」がモチベーションになっているとき、とてつもなく成長すると思います。
もちろん、生まれながらにして分かりやすい才能を持っている人も、世の中にはいると思います。
そんな才能を目にしたとき、気を付けなければならないのは、周りが本人よりも夢中にならないことだと思います。
起こりがちなのが、子供が何かの才能を見せたとき、周囲が本人以上に浮き足立ってしまうこと。
そして、その才能を伸ばしてあげることが親、あるいは大人の義務のように感じてしまうこと。
これ、非常に危険だと思います。
例えばスポーツなどで、本人よりも大人が「勝ち」にこだわるようになったり、「上達」させることに一生懸命になってしまい、本人がプレーする楽しさを見失ってしまうことがあります。
また、才能を伸ばすことで、この子が将来「お金」を稼げるようにしてあげたいと思う。
「お金を稼げる状態にさせてあげたい」と思うこと自体は問題ないと思うのですが、そのために色々と口やお金を出してしまうなら、問題だと思います。
一番大切なのは、本人がそれを望んでいるかどうか。
口出しも、本人がアドバイスを求めてきたなら、アドバイスをする価値はあると思います。
お金にしても、本人が何かをしたいと思っていて、そのためにお金を出して欲しい、と言ってきたのなら、出す価値はあると思います。
ただ、実際は 順序が逆の場合が多いと思うのです。
本人が「これをしてくれないか?」そう言ってくるまで待てず、よかれと思って勝手に先々事を進めてしまう。
これ、残念ながら、ろくなことがありません。
これをやり続けると、本人の「好き」や「やりたい」が曖昧になり、下手をすると好きだったそのこと自体を止めてしまう、という事態も起こりえます。
別に、それはそれでよいのですが「子供の才能を伸ばしたい」と思うのであれば、逆効果です。
大人にできることは何もないのか?
では、大人にできることはあるか?ですが、それは、見守ることだと思います。
本人が興味に従って伸びて行くのを、黙って観察する、あるいは放置しておくことだとわたしは信じています。
子供に限らずですが、人は自分の伸びたい方向に伸びていきます。もちろん必要最低限の生活が保障されていることは大切なことだと思います。
ご飯が食べられて、雨風をしのげる寝床がある。
それ以外は、本人が伸びて行くのを「お~、そっちに伸びていくんだな?」と観察しているだけでよいと思います。
観察自体も、人によってはそれほど必要ないかもしれません。
何か重大な問題が起こったときには気が付ける程度に注意を払い、必要なときに「どうしたの?」と声を掛け、自分を大切に思ってくれる人間がたしかにいることを分からせるだけでいいと思います。
大人が子供の才能を伸ばす、という意味でできることがあるとしたら、必要な情報を提供することだと思います。
今日、「徹子の部屋」で女性騎手の藤田菜七子さんがゲストで出ていました。
藤田さんは小学6年生のとき、たまたまテレビで観た競馬中継で騎手に興味を持ち、騎手になることを決めたと言っていました。
人の興味は不思議なもので、自分が興味を持つものは、どんな形で入って来ても、例え他の人には何のアピールをしなくても、自分にはピンと来るものだと思います。
インターネットが発達している現在では、情報収集すら子供自身ができるかもしれないのですが、本人が興味を持っていることについて、大人が入手できる情報を本人に伝えてあげる、そんな形でサポートはできると思っています。
わたしは、自分が英語が大好きで、英語ができたことで海外の友人がたくさんできたため、密かに姪っ子に英語に興味を持って欲しいと思っていました。
以前仲よくなったアメリカ人の友人に、姪と同い年の妹がいたため、姪にその子の話をし、小学生だった姪が中学の英語の授業を楽しみにしたり、中学に入り、習いたての英語で友人の妹に手紙を書いているのを見て、密かにほくそえんでいたものでした。
結局、中学・高校とそれほど英語に興味を持っていなかった姪でしたが、大学で国際学科に進み、いつのまにかオーストラリアにワーホリで出かけるようになっていました。
わたしの密かなる目論見が、姪のオーストラリア行きにどれほどの影響があったかは疑問ですが、いま、姪が自分の興味に従って、異国に出かけて行ったことをとても、とても嬉しく思っています。
素敵な人たちとたくさん出会って、楽しい経験をたくさんしてきて欲しいと思っています。
元気でやってこいよ~٩(ˊᗜˋ*)و !!!
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