「便利さ」の先にあるもの

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こんにちは、ノ~チン(@NozomiJapanese)です!

1週間ほど前、テレビで「種なしピーマン」が取り上げられていました。

それを見て、モヤっとしたので、そのことについて書いてみます。

種なしピーマンについての報道

「種なしピーマン」を紹介していた番組は、『羽鳥慎一モーニングショー』だったと思う。

品種改良か何かでできた「種のないピーマン」。

 

「種がないので、まな板が汚れません」

「あ~、たしかにピーマン、まな板が汚れて嫌ですよね」

「上のヘタ部分を切り落として、お肉を詰めたらそのまま肉詰めピーマンができちゃうんですよ」

キャハハ!みたいな流れで話は終わった。

 

観ていて、言葉にはできないけど、すごい違和感を感じた。

「そのピーマン、食べて安全なの?」

「そのピーマンはどうやってその先、子ピーマン作っていくの?」

 

その番組のコメンテンター、番組進行者の誰1人として、改良されたピーマンの安全性に対する疑問を口にする人がいなかったところが、また気持ちが悪かった

揃いもそろって、違和感 感じないの?

無農薬を栽培している山澤清さんの動画

その「種なしピーマン」の報道を観て、もやっとしていた翌日に、友達がSNSである動画をシェアしていた。

各地の伝承野菜を残す活動をし、無農薬農業をしている「山澤清」さんの動画。

この動画は、「自分の食べるものを絶滅させる種なんていないの。人間だけ。」という言葉から始まる。

 

山澤さんは、若いときに農薬の仕事をしていた。

農薬の正当性を信じ、活動していたというバックグラウンドを持つ。

が、途中で、農薬が連鎖的に生態系を破壊することに気が付いたそうだ。

 

たとえ話として、キャベツを食料とするモンシロチョウの話をしておられた。

モンシロチョウの幼虫は外側の美味しい葉っぱの部分だけを食べて、ほどなくさなぎになり、蝶々になっていく。

キャベツをすべて食べ尽くし、全滅させてしまうモンシロチョウはいない。

そりゃそうだよね。キャベツが全滅すれば、食べ物がなくなり、モンシロチョウも全滅することになる。

山澤さんは、自然のバランスが取れていれば、ほどほどに天敵が存在する

そうすれば、農薬を使わなくても、一部の種が増えすぎて すべてを食い尽くし、他の種を滅ぼすことはない、という。

わたしの解釈が入ってしまっていると思うので、興味のある人は元動画(4分20秒)をぜひ見てみて欲しい。

効率を優先にして作られた食物

生産効率や食べやすさを求めた結果、F1交配種や無精子症のように子孫を残さない「不稔の」作物が多く出回り、「不自然な野菜」が市場の主流になってきた。

「同じ大きさ」だから「箱詰めが簡単」、「流通に便利」。

この「大きさが同じ」で「便利」という部分は、いまの学校教育にも当てはまると思う。

多くの教育現場で、特定の規格に当てはまる人間をよしとし、規格に当てはまる人間を多く「生産」しようとしている気がする。

 

「生産効率」を上げるという意味において、「便利な」人間が育つと思う。

自分の頭で考えず、ハイハイと言うことを聞いてくれる人間がたくさんいれば、人を使って何かをしたい場合、便利だろう。

会社の業績を上げるために、多くの時間を職場で過ごし、自分の生活がなおざりに。

可愛い子供を見られるのは、寝顔だけ。

週末は、疲れを取るだけで精一杯。

それでも、世の中とはそういうものなんだ、と半ばあきらめて人生を送る。

そんな社員を抱えた会社が、業績を伸ばした先にあるのは、どういう社会なんだろう?

仮にそんな企業が世の中の大半を占めたとして、そんな企業や人間が構成する社会ってどんなところなんだろうか?

「便利」や「効率」を求める理由

そもそも、わたしたちが「便利さ」や「効率」を求めるのは、なぜなのか?

それは「便利さ」や「効率」を追求することによって、便利なものを使って「楽しく暮らす」ことだったり、効率化してできた時間を「大切な人たちとゆっくり過ごす」ためではないのか?

かくいうわたしも「便利さ」や「効率」について、これまでこんな風に考えたことはなかったけれど。

 

山澤さんは、現代病は1つの原因ではなく、色んなことが合わさって起こっていると思うけど、一番大きな原因は、「命のつながらないものを食べていること」だと思う、と言う。

 

多くの人に食べ物を行き渡らせられるようになった、という意味で流通のシステムが発達した功績は大きいと思う。

一方で、おそらく その途中で「多くを流通させる」ことに目的がすり替わってしまったのだと思う。

その結果「命のつながらないものを生産」し、人間を病気にしているとしたら、何かがおかしい。

「自分」と「他者」を区別する考え方

いまの世の中を見ていると、「自分」と「他人」を区別する考え方で溢れているように思う。

そして「自分」と「他人」は別、という思考はとても危険だと思う。

「種なしピーマン」に見る区別

この記事を書くきっかけになった「種なしピーマン」。

ピーマンは植物だから、なかなか自分と同じレベルで存在する他者として考えにくい部分があると思うけれど、

仮に人間がピーマンやその他のものを食べるように、人間を食料にする生物がいたとする。

その生物が、食べやすさを理由に、精子や卵子ができないよう人間を「改良」したら、どう思うのか?

食べやすいって大切ですもんね♬、子孫を残せなくってもいいっす。

その改良した、いい感じの人間をこの先 生産して行ってくれれば、原形はとどめなくなっても、わたしたち人類は続いていく訳ですしね。万歳♬!と思うのかな?

 

他人の気持ちを思いやりましょう、地球環境のことを考えましょう、絶滅危惧種を守りましょう、なんて話を大げさにしなくても、ごく普通の感覚で、相手の立場に自分を置き換えてみたら、何がよくて何はダメか、って分かってくる気がする。

国際問題に見る区別

国際問題でも似たようなことが言えると思う。

わたしは、中学・高校 通っていた学校がとてもつもなく合わず、逃亡目的で1年間アメリカに留学した。

たくさんの友達ができ、そのときのホストファミリーや友達とはいまでも連絡を取っている。

 

素敵な人がたくさんいるアメリカ。ただ、アメリカという国を見たときに違和感を感じることはたくさんある。

例えば、わたしがアメリカから帰国した年、アメリカは湾岸戦争を始めた。

他の国の国民が大量に死ぬ可能性のある「戦争」を始める。

その「戦争」に自国の兵士を送って戦わせる。

ベトナム戦争から帰還した多くのアメリカ人兵士が、PTSDを患った。ベトナム戦争は、地上戦だったから、PTSDが特に激しい戦争だったと思う。

 

「戦争」を始めるとき、他の国の人間を自分たちと同じ、笑ったり泣いたりして暮らしている「人間」と認識しているのだろうか?

戦争に行き、実際に爆弾を落とす人が受けるかもしれない心理的ダメージを、想像しているのだろうか?

空爆が発達しているいま、帰還兵のPTSDがどのくらいかは知らないけれど、爆弾を落とすことによって死ぬ人間のことを想像できる人なら、直接目の前で銃で殺すほどではなくとも、精神的ダメージを受けると思う。

 

わたしのホストマザーのお父さんはベトナム戦争の帰還兵だった。

戦争から戻ってアルコール中毒になり、離婚した。

ホストマザーは不安定な子供時代を送ったせいか、わたしがアメリカにいた当時も、そしていまも「抗うつ薬」を服用している。

 

わたしは広島で生まれ育ったため、留学する際に「原爆」に関する本を持って行った。

帰国してから、2年後に母と一緒にアメリカに里帰りをしたときのこと。

ホストファーザーが、わたしの母に「原爆はアメリカが戦争を終わらせるために落としたんだよ。あれは正しいことだったんだよ。」と言ったらしい。

わたしの両親は、共に就職・結婚で広島に来ているので、原爆によって亡くなった親族はいない。

それでも、母は「この人は何を言っているんだ?」と思ったそうだ。

断っておくけれど、わたしのホストファーザーは、とても心優しく、人間として異常な人ではない。

人として好きな人だ。

 

彼が、どうしてわたしの母にそんなことを言ったのかは、いまとなっては確かめようがない。

ただ、彼の頭に、自分の親兄弟、友人、子供、あるいは自分自身が、原爆によって一瞬で灰となって消えてしまう。

骨を集めようにも、骨すら残っていなかったり、多くの人が亡くなり、街のそこら中に死体が積みあがっていた。

そのときに死ななかったとしても、原爆の後遺症で白血病に苦しんだり、その後に生まれた子供までもが病気で苦しむ可能性がある、そういう想像力は働いていなかったと思う。

自分のパートナーの父親がベトナム戦争でPTSDになり、その子供であったパートナーが辛い子供時代を過ごし、60歳を過ぎたいまも「うつ」を抱えて暮らしている。

そんな人が傍にいるのに、なぜ?と思う。

「便利」は「悪」なのか?

「便利さ」が発達したいまの世の中。

わたしは、つい最近まで、「テクノロジーの発達」や「便利になること自体」に軽い嫌悪感を抱いていた。

スーパーのレジが機械になる。いや、便利やけど、爺さん婆さんが使いにくくならんの?とか。

色々発達したテクノロジーに付いていくのが大変そう、とか。

テクノロジーが発達することによって、世の中が脆弱になるんじゃないの?とか。

 

ただ、「便利になること」自体が問題ではないのかもしれない、と最近は思うようになってきた。

テクノロジーに「ついていく必要がある」と思うと、大変だけど、使うか使わないかはある程度自分で判断できる。

利便性を感じれば、使い方を学べばいいし、使いたいけど覚えるのが面倒なら、それをやってくれる誰かが出てくるだろう。

 

すぐに思い浮かぶ、わたしが恩恵を受けているテクノロジーは、インターネットと飛行機だ。

インターネットと飛行機があるおかげで、これまでに色んなことを経験できた。

インターネットのおかげで、色んな国の人と友達になれたし、飛行機があるおかげで、その人たちが日本に来たり、わたしがその人たちの国に行くことで、実際に会うこともできた。

地球の裏側の人が何を考え、何を楽しいと思い 生きているのか、そんなことを、インターネットのおかげでテレビからの情報としてではなく、直接友達から聞くことができる。

もし飛行機がなければ、知り合った多くの人と会うことはなかっただろう。

日本に来るために、3ヶ月船に揺られ、命を落とす危険があるとしたら、これまでに会ってきたほとんどの友達が来日してないと思うから。

わたしが気付いたこと

わたしは、今年の2月にこれまで自分を苦しくしていた考え方に気が付き、自分自身の本来の性質を思い出し、ありのままの自分でいい、と思えるようになった。

そして、生きていくのがとても楽になった。

世の中に蔓延する「一定の規格内に収まるのがいい」「幸せの形はこう」みたいな画一的な考え方に、知らないうちに自分も大きく影響を受けていたことに気が付いた。

わたしは、月曜日~金曜日まで会社に行って仕事をする、というスタイルがとても合わないし、嫌いだ。

ただ、これまでは どこかで、もしそれができないなら、それ以外の方法で、金銭的に成功している必要がある、と思っていた。

つまり、会社勤め以外の手段で、一般的な会社員以上の収入を得なければダメ、と心のどこかで思っていた。

 

だから、長年自営業で仕事をし、細々と生活できていたのに、ある日突然、

長年自分で仕事をしているのに、いつまで経っても十二分な収入を得られない自分=落伍者

みたいに思ってしまったのだと思う。

こんなどうしようもない自分は、将来の年金のためにこの先約20年、なりたくない会社員になって働くしかないんだ、と思った( ;´Д`)

本当に必要だったのは、自分に合う働き方で十分と感じられる収入を得る方法を探すことだったと思う。

いま現在、その方法が明確に分かっているわけではないけれど、それができるということは分かっている。

それは、本来の自分自身にOKを出せたことが大きい。

 

わたしは、「売り上げを伸ばす」ことや「収入を増やす」ということ自体がモチベーションにならない。

自分のやることの「意義」が分かってないと、ダメな人間だ。

だからこそ、規格内の「よい生徒、よい人間をたくさん育てている」と、世の中から認知されることが大切な学校が合わなかったのだと思う。

わたしのように、さして従順でもない、納得できなければ「なんで?」と疑問を口にする人間は、歓迎されない校風だったのだと、いまは思う。

 

当時の家庭の状況の影響で、わたしの「学校が合わない」「学校を変わりたい」という言葉が両親に届くことはなかった。

口に出してなかった訳ではなく、口に出しても、聞こえる状態じゃなかった。

 

中学に入ってから、ずっと「自分の気持ちを大切にしてもらえなかった」。

だから、自分の気持ちを大切にすることができず「うつ」を繰り返してしまうんだ。

と感じていた。

 

そして、そのことを悲しく思っていたのに「自分の気持ちを大切にできない自分」をどうやって変えられるか分からなかった

 

自分の気持ちを大切にできるようになり、自分の気持ちを日々注意・点検しながら生きるようにしだしたいま、分かったことがある。

それは、自分の気持ちを大切にしていないと、他人の気持ちも大切にできないということ。

 

「若いころは、徹夜で仕事をしたもんよ。べらんめえ。」と言う人がいたとする。

そして、だから「お前も、もっと仕事をしろ。」と。

その人は、きっと若いころ「自分がやりたいから」、徹夜で仕事をしていた訳ではないと思う。

 

俺も若いころは嫌でもやってたもんだ。だから、若いときは嫌でもいっぱい仕事をするのが正しんだぜ、みたいなノリだと思う。

 

その人に、「じゃあ、おっさん、このゲームを週末8時間やってみな。俺は週末8時間やってるんだから。」とか言うと、「なんでゲームなんかせなあかんねん。」とか言うと思う。

「いや、俺がやれてるんだから、おっさんもやれるでしょ?」と言っても、そもそもそれは仕事と違うやろ、とか言って、その話と自分が言ってる話の共通点に気が付かない。

 

人は自分のやりたいことをやって生きていると、他人がやりたいことをやっている人生も認められると思う。

そして、自分のやりたいことをやって生きていないと「やりたいことをしている人間に嫉妬したり」、「やりたいことができている人間と自分の違いを証明しようとしたり」すると思う。

「俺は生まれた家が貧乏だったから。」「そいつには才能があったから。」

でもね、本当はそうじゃないと思う。

自分自身を大切にすること

人生の中で、一番大切なこと「一番身近な存在」の「自分」を大切にすることだと思う。

自分を大切にして「自分」が、まず「幸せ」になることだとわたしは思う。

色んな便利なものが存在する、いまの世の中。

大切なのは、それが自分や自分の大切な人を幸せにするものかどうか、それを「自分で」判断することだと思う。

そして、自分にとっての「便利」が、他人の不利益になっていないか、も大切なことだと思う。

わたしたちは、それぞれが色んな形でつながっているから、他人の不利益は、回り回って結局自の不利益になると思う。

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プロフィール

このブログを書いているノ~チンです。

『慶應大学卒、TOEIC985点で英語ペラペラ』という一見ハイスペックな特性を持ちながら、19歳から度重なる「うつ」を経験していました。

46歳だった2019年2月に、これまでどうして「うつ」を繰り返し発症していたのかを理解し、これからは好きなように生きていくぜ~、ひゃっほ~~ぅ(〃∇〃)b!と心に誓いました。

中2から46歳までの人生が、つまらなさ過ぎたので(←長っ)、これからは楽しいことしかいたしませんっヾ(≧▽≦)ノ!

ココロ」ではわたしが感じていることを、「人間ウォッチ」では、わたしが人生で出会ってきた素敵な人&クソかよ!と思った人について、書いています。

詳しいプロフィールは「こちら」をご覧ください。

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