「クズ」として ありのまま生きる

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こんにちは、ノ~チン(@NozomiJapanese)です!

先週5日ほど外泊していたら、あっという間に体重が3kg増えていました。

帰宅後1日で1kg減・・・。すぐに元に戻るとは思うのだけど、何がどうなったらこうなるのか、謎。

あたしもあんたも、みんなクズでしょ?

わたしは以前、「よい人間」であろうとしていた時期がありました。

が、今年の2月、過去に起こったできごと、自分が選択してきた過去の行動やその理由、自分自身の生まれ持った性質などがすごい勢いでつながり

ありのままでいいやん、

と思うようになりました。

『あたしもあんたも、みんなクズでしょ?』なんて見出しを書いたけれど、わたしは同時に、人は みな 天才だと思っています。わたしも、あなたも。

人間は、みないいところも悪いところもあって、それでよいと思うようになりました。

よいところも悪いところもあるところを、無理やりよいだけの人間になろうとしたり、本来の個々人の特性を無視して、決まった枠にはめ込もうとすると、歪みが出てくるんじゃないのかな?と思うのです。

竹はまっすぐ、上に上に伸びて行こうとするし、松は少しうねりを出しながら伸びて行く。

竹を松のようにうねらす必要もないし、松を竹のようにまっすぐ上に伸びさせる必要もない。

 

いまの世の中、◯はよいけど▢や△はダメ、みたいな風潮があるように思います。

上の竹&松の例で言えば、まっすぐ伸びる竹は優れている。人間で言うと、人当たりがよくて明るく、きびきびと仕事ができ、お金を儲けられるのが優れています、みたいな風潮です。

松を竹のようにまっすぐ伸ばそうと思えば伸びるでしょう。

樹木の育成にはまったく詳しくありませんが、枝をどんどん切り落として、幹の周囲に囲いでも付けて、縦だけに伸びるようにすれば、おそらく縦方向に伸びて行くでしょう。

でもそれ、松のよさなくなるや~ん(ノ´▽`)!

そもそも、松だかなんだかもよく分からない物体になるや~~ん(ノ´▽`)!

本来、◯も▢も△も、それぞれの形で輝けるはずで、ある角度から見れば短所に見える性質だって、別の角度では長所になるものです。

 

わたしは、あまりニュースは見ないのですが、先日、お風呂から上がるとニュースがついていて、衝撃的なニュースが目に入ってきました。

かつて事務次官として活躍していた人が、40代の息子を殺した、と。

先月末、川崎で起こった引きこもりの50代の男性が起こした殺傷事件と、引きこもり状態だった自分の息子さんを重ねてしまったようだということ。

雇われて働くのが苦手

わたしは、2006年から自営で仕事をしています。

途中、うつが酷くてほぼ休止状態だった時期もありますが、その仕事を始めてからかれこれ14年経ちます。

仕事を始めたきっかけは、当時書いていた英語のブログ経由で知り合ったイギリス人から、好きな日本のバンドのCDを買って、送って欲しいと頼まれたことでした。

「ロンドン中回ったけど、どうしても見つからないんだ。買って送ってもらえないかな?」

当時、わたしは、重篤な「うつ」からの回復期でした。

約1年半の休養を経て(引きこもり生活とも言う)、ようやく やろうかな、と思えることが少し出てきた状態で、英語のブログはその中の1つでした。

 

傍から見ると、高学歴で英語もでき、自信にあふれる人間を想像されるかもしれません。でも、わたしは著しく自己肯定感が低い人間でした。

人懐っこくて、優しい。

自分によいところがたくさんあることは分かっているけれど、それでも自己評価はとても低かった。それは、自分や兄たちが生まれてきたことで、大切な母を不幸にしてしまった、と長い間勘違いをしていたからでした。

 

わたしは、いまの日本で勤労人口の大多数がこなしている

「決まった曜日に決まった時間、雇われて働く」ということがとてつもなく嫌、かつ苦手です。

そしてそれができない自分をクズだと思っていました。

 

2006年に始めた自営の仕事ですが、10年経っても毎月生活するのに充分なお金を稼げるようにはならず、貯金が減ってきたら派遣などでお金を稼ぎ、自営の収入と貯金から切り崩すお金で生活をしていました。

いまとなっては、そんな状態で10年以上生活できていたこと自体、それなりにすごいことだよ(*´∀`*)!と思うのですが、以前は「生活できるだけのお金を充分に稼げない自分」=「ダメな人間」と思っていました。

自分へのレッテル

約3年半前、人生二度目の重篤なうつに陥ります。

当時、わたしは「自営の仕事で月々の充分なお金を稼げない自分」=「ダメ人間」と思っていました。

「某英会話スクールの講師業」+「自営の仕事」の二足の草鞋を試みたり、自営の仕事一本で収入を増やそうとしたり、紆余曲折あったのですが、その過程で自分の「雇われて働くことが苦手」な特性を再確認し、自分に対する「ダメ人間」のレッテルを強めてしまいます。

紆余曲折後、自営の仕事を辞めて、将来の年金のために、今後自分の嫌いな人に雇用されて働くという形で、15年余り働かなければいけない、と思い始めたあたりから急激に「うつ」になっていきます。

自分自身、「これはヤバいやつだ」「このままではうつになる」ということは分かったのですが、当時のわたしにそれを止めることはできませんでした。

「自営の仕事を辞めて」「将来の年金のために」「この先15年間ずっと」「自分の嫌いな他人に雇用される形で」など、いまから考えればツッコミどころ満載なのですが、当時は真剣にそう思いました。

そら、「うつ」になるよ。自分ながら、とても可哀想(つД`)・゚・ ウワァァァン

某英会話スクールでのできごと

4年前の夏、わたしは某大手英会話スクールの面接を受け、トレーニングを受けて働くことになりました。

トレーニングの間、「黙って席についている」こと自体ひさしぶりで、自分もやっていたことではあるのですが、学生って毎日毎日何時間も講義聞いてスゴイな!と、多くの人はおそらく感動しないところで、感動していました(笑)。

休憩時間に、

「ずっと座って話聞いてると、叫びたくなりません?」

「めっちゃ、叫びたくなるーーー!」

と同じトレーニングを受けていた人たちに話していました。

いま思うと、「ほんとですよね~」とか「なるなる~♬」という返事はなかったので、他の人は「??」と思っていたのかもしれません。いま気付いたヾ(≧▽≦)ノ。

 

2~3週間に渡る苦痛なトレーニングでしたが、講義中に奇声を発することもなく、無事終了することができました。

教えること自体そこそこ好きで、かつ自営の仕事で日々英語を使っていたので、英会話クラスのトレーニングは一番上のレベルまで行きました。

このスクールでは、当人の能力に応じてトレーニングのレベルが止まるシステムになっていたため、他の人は最後のレベルになる前にトレーニングが終わっていました。自分では苦手意識のあった文法も同期の中ではわたしだけがトレーニングを受けました。

トレーニングが終わり、複数のスクールで授業をすることになります。

英語を教えるという仕事

トレーニングを終えて、実際に授業を開始しました。

講師をやってみて分かったのですが、授業の準備ってほんと時間がかかります。慣れていなかったこともあり、1時間半の授業をする準備に2~3時間かかっていました。

教えること自体好きだったし、そのスクールのトレーニング体制、教材もとてもしっかりしていたので、初めての講師業でしたが、とても楽しく教えることができました。

「ここのレッスンを楽しみに、毎日仕事がんばってます」と言ってくれる生徒さんもいて。゚(゚ノД`゚)゚。・、本当に楽しく教えていました。

 

が、2ヶ月ほど経過した時点で問題が発生します。

カウンセリング:スクールへの貢献

講師業を始め、授業の準備に予想以上の時間を取られながらも、教えることの楽しさもやりがいも感じていました。

2ヶ月ほど経過したとき、生徒さんに「カウンセリング」なるものをする時期が来ます。

 

カウンセリング前に、カウンセリングの仕方に関するトレーニングがありました。

そのトレーニングを受け、わたしは「カウンセリング、やりたくない( ;´Д`)」と感じます。

 

トレーニングで受けた印象は、「いま来ている生徒さんに、より多くのレッスンを売りなさい~」というものでした。

「スクールの繁栄&存続のために、いま来ている生徒さんにより多くのレッスンを売るのよ」というスタンス。

生徒さんに営業をかける。それも、生徒さんがそれを本当に欲しがっているか、生徒さんがどのくらいのお金を出せるのか、出したいのかよりも「とにかく売る!」そんな印象を受けました。

 

あとになって知ったのですが、英会話スクールの講師って、年中ひっきりなしに募集があるそうです。そして、多くのスクールが講師=営業を兼ねる、という形になっているそうで、ここを苦痛に感じて続かない人も多いようです。だから、年中募集してるんだと思います。

 

「教える」という部分はなんなくクリアしたかに見えたわたしでしたが、この「営業」部分でつまづきました大転倒します。

より多くのレッスンを売れ

自営の仕事でもそうですが、わたしは「人に売り込む」のが苦手です。

そのお蔭で、自営の仕事ではお客さんが自分が買いたいものをわたしに「これ、買って。よろしくね。」と教えてくれる形になっています。

自分自身さほど多くのお金を持ったこともなく、物欲もそれほどないため、余計なものを人に売りたくないという気持ちがあります。

 

そんな訳で、いまスクールに通ってくれている生徒さんに、もっと多くのレッスンを売りつけろ!(とわたしは感じた)という姿勢にすごい拒否感を感じてしまい、カウンセリング(=営業)をすることが分かったあたりから、胃の調子が悪くなってきました。

カウンセリングのトレーニングでは「生徒さんの英語能力が高められるよう、より必要なサービスを紹介してあげ、成約してください」という言い方をされます。

中には、本気で「たくさん売ること」=「生徒さんのためになる」と信じている先生もおられました。

本当に迷いなくそう思っている感じで、スクールが出しているサプリメントも愛していて、「これを飲み始めて風邪を引かなったのでおススメですよ♡。」と言われていました。

いま思ったのですが、その先生は、そのスクールの何もかもを愛されていたのですね、きっと。そのスクールに就職して、自分の人生がよくなった、と感じることがあったのかもしれませんし、学校を卒業されて、すぐにそのスクールに就職されたように見受けられたので、比較するものがなかった、ということもあるかもしれません。

その先生自体、素敵な人だと思っていたにも関わらず「たくさん売る」=「生徒さんのためになる」ということを純粋に信じて話されているように見えたときは、めちゃめちゃ違和感を感じたのを覚えています。

わたしの考え方とあまりにかいりしていたためか、「洗脳されてんの?」はたまた「頭にウジ湧いてんの?」みたいな気持ちになりました。

 

わたしは、建て前的な表現も非常に苦手です。建て前の部分にモヤモヤを感じてしまうんですよね。

「生徒さんのためを思い、生徒さんの英語能力が高められるよう、より必要なサービスを紹介し、成約してください」ではなく、「スクールを存続させるためには、利益を出し続ける必要があります。そのため、生徒さんにはたくさんお金を落としてもらう必要があります。新規開拓もしていますが、なかなか難しいので、いま来てる生徒さんの中でお金に余裕がある人、あるいは英語に対する意欲が高い人には、ガンガン売っちゃってください♬!」的な表現をしてもらえると、「やってみます( • ̀ω•́ )b!」くらいのノリでお仕事ができたと思います。

 

スクールがサービスを維持していくのに利益を上げることは間違いなく必要。そこのスクールが提供しているサービス自体、とてもよいとわたしは思っていました。ただ、利益を上げるための努力の方向が違うんじゃないの?とも思いました。

そもそも、英語を教えると思って入った人に、強い営業力を求めるシステム自体、変えた方がいいのではないかと思います。

人には得意・不得意があります。

「売ることは得意じゃないけど、教えることは得意」な人は世の中にたくさんいると思います。もちろん両方できる人が重宝される状況は理解できるのですが、教えることは得意だけど、売ることが苦手な人が苦痛を感じ、人材を確保できないのではスクールにとっても損失ではないかと思います。

教えることに特化した講師がいてもよいシステムであれば、その人たちが名物講師になることで、結果的に学校にプラスにできたりもするのではないか、と思います。

子宮の病気になった先生

カウンセリングのトレーニングで知り合った新人講師に、わたし同様「営業」色の強い「カウンセリング」に強い拒否感を感じていた先生がいました。

わたしは「胃」に来たのですが、その先生は「子宮」に来たようで、医者から手術が必要と言われたそうです。スクールに言うと、契約期間が終わる数ヶ月後まで待てと言われたとか。この先生は手術もあるし、もう辞めたい、とスクールに打診していたようでした。

わたしも、ストレスが胃に来て、オェオェ言い始めていました。

なぜこんなにストレスを感じていたかと言うと、わたしが真面目にスクールの意向を汲もうと努力してたからなんですよね( ̄ー ̄;。本音と建前の使い分けが上手でないわたしは、なぜかそれを求められるなら、しなければいけない、と思う癖がありました

彼からは、「そんなの適当にやってればいいのよ~」と言われていました。

彼は、そういうところがとても柔軟なので、相手の気分を害することなく、相手の意向を汲んでいるように見せながら、自分もストレスをためずに身を処することができる人です。自称「磯野カツオ」。ホントに 羨ましい。

 

スクールの意向を深く受け止めず、適当にやってる感を醸し出し、営業努力をしなかった方が、わたしは楽で仕事を続けられたし、スクール側も将来的に人気講師になった可能性のある人材(自分で言うなw)が、胃を悪くして逃げ出す、という事態も防げていたと思います。

こんな状態なので、来年度の契約更新はなしだな、と思っていました。

とりあえず 年度末の3月まで、と思っていたのですが、日々増していく苦痛

 

わたしが講師をしていたのは3~4ヶ月でしたが、英会話と文法のクラスを両方持っていたため、カウンセリングが二度ありました。英会話クラスのカウンセリングを終え、文法クラスのカウンセリングの準備をしている途中で、風邪を引いてしまいました(´・ω・`)

風邪引くくらいどうってことないと言えばないのですが、それまでの4年間、わたし、まったく風邪を引いていませんでした。

最近風邪を引いたときも思いましたが、ストレスと風邪って本当に密接に結びついていると思います。

 

結局・・・年度末を待たずにケツを割ってしまいました。゚(゚´Д`゚)゚。

 

ウソまでついて。

「クズ」のレッテル

スクールを辞めて、本来なら解放感を感じてもよさそうですが、契約期間を満了せず、またウソまでついて辞めたことは、わたしの中に「自分はやっぱり組織で働けないクズ」みたいな思いを強くしてしまいます ( ´д`ll)

 

事実だけを見れば、英語を教える仕事だと思って入ったけれど、「営業」業務も含まれており、その「営業」がとても嫌だった。「辞めたい」というだけでは辞められそうになかったので、ウソをついて辞めた。

というできごとだったと思います。

 

「クズ」というレッテルを貼らなくても、この経験を通して自分自身のことを理解する手掛かりにすることもできたと思います。

  • 一番上のクラスまでトレーニングを受けられた=英語の能力は認められた
  • 授業を教えるのは楽しかった=教えることは楽しんでできる
  • 生徒さんも楽しんで授業を受けてくれていた=教えること自体は向いているかもしれない
  • 自分以外にも、スクールの営業方針を負担に感じる人がいた=スクールの方針自体、講師への負担が大きいのかもしれない

 

「『売ること』ありきの営業」は自分には向いていない、ということも、発見として今後の参考にすることもできたと思うのですが、わたしの中でこの経験は失敗として刻まれ、自信喪失につながってしまいました。

枠からはみ出た人間はダメなのか?

いま、わたしは実家で生活をしています。

80歳近い両親は、ありがたいことに「膝が痛い」くらいでピンシャカしてくれているので、両親の世話をするでもなく、のんびりと生活でき、これからどう生きたいかを考えられる環境にいます。これを書いていて、改めて、とても恵まれた環境にいると思います。

わたしは30代前半、40代前半で二度の重篤な「うつ」を経験しています。

そのため、「引きこもり」状態だったことが二度あります。

いまは、元気になって、自分の興味に従って人に会いに行ったり、趣味の音楽もしています。

でも、先日ニュースで言っていました。高齢の両親に世話になる「パラサイトシングル」が増えている、と。そしてそれが社会問題になっている、と。

 

「パラサイトシングル」とは

学卒後も親に基本的生活を依存しながらリッチに生活を送る未婚者。
まるで親を宿主として寄生(パラサイト)しているように見えることから、1997年に山田昌弘(筆者)が使い始めた言葉である。
親に家事を任せ、収入の大半を小遣いに充てることができ、時間的・経済的に豊かな生活を送っている。

via: コトバンク

「リッチに生活を送る」というところを除いてはいまのわたしにバッチリ当てはまります。

この「寄生(パラサイト)」という表現、個人的にはとても悪意を感じます(笑)。

 

核家族化が進む前の日本では、多くの家族が一緒に住んでいたと思います。

その中には、成人後も金銭的な収入を得ず、家事もさほどせずに家に居た人もいたと想像します。当時の日本でも、それが他人から非難されるような社会だったのかな?

わたしは歴史には詳しくないので、日本が昔からそういう風潮なのか、そうでないかは分かりません。

ただ、学校を卒業したら、収入を得、金銭的あるいは家事で家庭に貢献し、自立すべし、みたいな論調には「そうなの?」と思います。

たしかに立派に聞こえるよね。そうすることで家族みんなが楽しく幸せならそうすればいいよね。でも、そうでないと楽しくないし、幸せを感じられないものなの?と思います。

学校を卒業して、親に基本的生活を依存して、収入の大部分を使って時間的・経済的に豊かな生活を送る。

それの何かがマズいのかが、わたしにはよく理解できない。

 

いまの世の中の論調を見ていると、ある特定の形をよしとし、それに該当しない人間は対処すべき問題のように扱う傾向があるようにわたしは感じます。

また、何か事件が起こると、それが起こった理由を分かりやすい特定のことがらに結び付けようとするとも感じます。

 

今回、川崎の事件が起こり、事件発生当時から、犯人が長い間引きこもり生活をしていたことが大きく取り上げられていました。

冒頭の、かつて事務次官として活躍していた人が息子を殺してしまった事件の報道で、この人以外にも、川崎の事件後、引きこもり生活をしている当事者が「自分も奇異な目で見られてしまうのではないか」という不安を感じたり、家族が「自分の子供が同じような事件を起こしたらどうしよう」と不安を感じる人が多くいる、と言っていました。

これは、川崎の事件と犯人が長年引きこもっていたことに、因果関係があるような報道をしたためだと思います。

 

人間は「理解できないもの」に「恐怖」を感じる、と言います。

川崎で起こった事件などは、簡単に理解できないですし、そのため大きな恐怖を感じると思います。ただ、だからと言って、安易に目に付いた事象と事件を結び付けることはとても危険。

あの人は〇〇だったから、あんな事件を起こしたんだろう、そう思えば、少しは恐怖が和らぐのかもしれません。

でも「長年引きこもりをしている人間」=「危険」、という事実はありません。にもかかわらず、あたかもそう思わせる報道をしたことにより、同じ属性の人や関係者に与えた不安や恐怖を考えれば、安易に行った報道の不利益が大き過ぎると思います。

生きやすい社会

現在、引きこもり人口はたしかに多いようです。

長年、外に働きに出ていなくて、収入を親に依存しているとしたら、その人たちも、家族もとても不安だと思います。

その不安がどこから来ているかを考え、不安の原因を取り除く努力を、本人、家族、そして周りの人が一緒になってし、不安を軽減したり、解決することができれば、社会全体にとってメリットだと思います。

 

日本では「他人に迷惑をかけない」ことが大切と教えられています。

でも、人は生まれた瞬間から他人に迷惑をかけ、同時に他人に貢献をして生きているとわたしは思います。

自分の問題や悩みを、他人が気にかけ、助けてくれる。他人の問題にも自分が寄り添い、助けられる、そう思うだけで、いまある悩みや問題の多くが、小さくなりませんか?

 

今回、3年半前にうつを発症したとき、わたしは「死にたい」「いますぐ死にたい」と強く感じました。何度も「うつ」を繰り返し、今回は調子のよい状態が10年ほど続いていたため、その分絶望感が強かった。

またよくなっても、またなるかもしれない。もうよくなりたくない。もう嫌だから、いますぐ死んでしまいたい、そう思いました。

その間、わたしの気持ちを否定することなく、折に触れ安否確認をしてくれた友達がいました。

「生きたい」とは思えなかったけれど、自分を気にかけてくれる人がいる、と思えたことは、わたしにとって救いでした。

 

誰かの抱えている不安や問題を、あってはならないもの、社会の重荷のように扱うと、助け・助けてもらえる世の中なら小さな問題が、途端に排除し、対処すべき問題になってしまうように思います。

そんな風に問題を扱ってしまう原因は、社会全体が無理をしているからだとわたしは思います。

お前もがんばれ

「俺だって、わたしだって、大変な思いをしながら、踏ん張ってる。」

「できるものなら、自分だってゆったりと暮らしたい。」

「でも、そんなのは甘えだ。」

「俺は、わたしは、大変なのに、楽しやがって。」

そんな風に感じて生きている人が、いまの世の中多いのではないかと思います。

 

自分も無理してる、自分も頑張ってる。だから、他人もそうするべきだ、と

 

わたしは、特定の枠組みにフィットすることが求められるいまの社会では、生きにくい人間でした。

その自分の特性を理解し、受け入れられたいまは、そのままの自分で気持ちよく生きて行く方法を模索しています。

自分自身を受け入れられたため、いままで難しいと感じていたこと、例えば生活して行くだけのお金を稼ぐこと、は問題なく実現できると思っています。

これまで、自分の特性を否定し、消耗していたエネルギーを、やりたいことを実現するために使えるからです。

 

わたしの母親が「頑張ること」に重きを置く人だったからなのか、はたまたそもそもそういう人間だったからかは不明ですが、わたしは 子供のころから「頑張ること」に意味を見出せない人間でした。

いまは、その理由がなんとなく分かります。

人間、自分がしたいことは勝手にやります。そこには「頑張り」は必要なく、ただ、やりたいからやっていく内に、色んなことができるようになり、また自分がなりたい姿に向かって、工夫もするし、時間もかけます。だから、わたしはいまも昔も「頑張る」ことがキライだし、意味を感じません。

わたしにとって、「頑張る」とは「本当は自分がやりたくないことに時間や労力を費やす」ことだから。

これも、「頑張る」の定義が人によって違うので、人によっては「頑張る」=「自分がやりたいことを一生懸命やる」ということがあることはご理解くださいね。あくまで、わたしにとって、です。

 

少し前に、統合失調症のYouTuberさんが「精神疾患になる人は『頑張れない人』ではなく『頑張り過ぎて壊れてしまった人』だよね」という会話をしていて、「お~、なるほどな」と思いました。

わたしの場合も、方向は間違っていましたが、自分なりによく頑張ってたよね、と思います(´ー`)

自分と他人

世の中では、自分と他人を分けて議論をするのをよく目にします。

「自分、または自分たち」がいて、対極に「対立する他者」がいる、そんな議論。

わたしはそういった議論に疑問を感じます。

 

たくさんの人間が生きていて、何が好きとか嫌いとか、色々と違うところはあると思います。

でも「何かを好きと思い、別の何かを嫌いと思う」そういう大きなくくりでは同じだと思います。また、自分の価値観(好き・嫌い)を尊重して欲しい、尊重されると嬉しい、ということも共通していると思います。

それを「自分が信じていることは正しくて、それ以外は間違っている」と議論を始めるから、対立してしまうのだと思います。

それぞれが正しいと感じることがあり、間違っていると感じることがある。そしてそれを尊重されたいと感じている、と思えば、対立せずに互いを尊重することができると思います。

 

自分の信じてることが正しいことを主張するために、他の考えが間違っていることを証明する必要はあるでしょうか?

まとめ

今回、この記事を書いていて、引きこもりの人が徐々にでも収入を確保できる状態にする、ことの重要性に思い至りました。

ニュースなどで、引きこもりの人やその家族が高齢化していること、引きこもりの人が収入を得ていない場合、両親の年金が収入源になっており、両親が高齢化で介護が必要になったり、亡くなることで収入が途絶えるという話を耳にしましたが、そうなった場合、本当に本人が困るんだな、ということに思い至りました。

ニュースで、引きこもりの支援者が言っていたけど、引きこもりの家族(親)は、現状を正しく認識していない場合が多いそうです。

親心として、自分が亡くなった後に、子供が月に15万円くらいの収入を得られる状態にしてあげたいと思っていることが多い。ただ、実際は、持ち家があったり、その他の理由から、実際に必要な収入は3~5万円でよい場合が多い。

実際に即した状態を認識して欲しいのと、収入を得る・得ない以外にも、本人が他者と交流したい、あるいはできる状態に持っていくことで、支援が受けられるようになったり、事態が変わることはたくさんある、と言われていました。

稼ぐ目標が3~5万円であれば、目標を前にモチベーションが砕けてしまう確率もかなり低くできると思うし、週に何度かアルバイトに行くことでも達成可能でしょう。

また、インターネットが発達している現状であれば、ネット上で書籍や物を売ることでも達成可能な金額だと思います。

人との接触を避けたい人には、そういう方法を提案することで、選択肢が広がると思いました。

 

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プロフィール

このブログを書いているノ~チンです。

『慶應大学卒、TOEIC985点で英語ペラペラ』という一見ハイスペックな特性を持ちながら、19歳から度重なる「うつ」を経験していました。

46歳だった2019年2月に、これまでどうして「うつ」を繰り返し発症していたのかを理解し、これからは好きなように生きていくぜ~、ひゃっほ~~ぅ(〃∇〃)b!と心に誓いました。

中2から46歳までの人生が、つまらなさ過ぎたので(←長っ)、これからは楽しいことしかいたしませんっヾ(≧▽≦)ノ!

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【カテゴリーについて】
カラダ&システマ」では、最近興味を持っているカラダやロシアの武術システマについて、「アレコレ&人間ウォッチ」では、わたしが日々の生活で感じたことを、書いています。

以前は、英語に関するブログを書いていたので、興味のある人は「外国語&英語」もどうぞ。

詳しいプロフィールは「こちら」をご覧ください。

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